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2014年10月15日 (水)

東京土建西東京支部ー福島市笹谷仮設住宅支援 

 

「じゅうねん」

 「住宅デー」の祭りに合わせて、住民の人たちが思い思いの場所にテーブルを囲んで飲み会を開いていた。7~8人のグループに仲間入りさせてもらった。

 40代から70代くらいまで年齢はまちまちだが、みな屈託がない。それぞれが持ち寄った手作りの料理を前に、おばさん連中もけっこうアルコールも進み、東北人とは思えないほど饒舌である。よくしゃべり、笑う。

 私がそれとなく避難生活などに話を向けても、「こんなに苦労してきたんだから、これからは楽しく過ごすようにしている」と話をさらりとかわす。

 「これ、サッちゃんのばあちゃんが漬けたきゅうりの漬けもんダ。食べてみろ、うめっから」と、皿の隅に残った料理を指差した。これは「じゅうねん」というシソの実のような粒をすりこ木で潰して、漬ける時に入れてあるから特別なのだそうである。なんとなく香ばしい味がした。「じゅうねん」とはこの地方での特産で、食べると10年長生きするというえごまのことらしい。栽培が難しく料理するのに手間がかかるので、一般ではなかなか手にはいらないという。さらに私が興味を示すと、サッちゃんは自宅に走ってその実を持ってきてくれた。「いま、ばあちゃんから漬物のつけ方をいろいろ教えてもらっているんダ」とのこと。

 「じゅうねん」がひとしきり私と彼らとの主題となって、その場を盛り上げた。まるで「さんねんはん」前の、あの記憶を打ち消すかのように。

 それでも話の合間には、「この先平成29年に戸建ての復興住宅ができるということだが、遅れているのでどうなるかわからない」という不安や、「昼間2時間だけ浪江の自宅に戻ることができても、あまり戻る気がしない。そもそも自宅に帰るのに許可証が必要など、ふざけている」、という憤りなどをにじませていた。

笹谷仮設住宅

 福島市笹谷に設置された仮設住宅には168世帯300人が居住し、子どもの数は35人だがそれでも多い方だとのこと。

 一見して工事現場に置かれた事務所風で、屋根が真っ平らな1階建ての6軒長屋。天井が見るからに低い。阪神大震災時に使用したものを移設したという。

間取りは単身用の1Kタイプと、4~5人用の3Kタイプ。台所も、玄関も、収納スペースも極めて狭く、形だけのユニット式バス・トイレ。学校の体育館よりはマシという感じ。屋根も壁も鉄板製で、断熱材入りとはいえ当然夏は暑く、冬は寒い。昨年1M以上積もった雪を建物間の狭い通路に降ろすと、エアコンの室外機が埋もれて暖房が効かないということもあった。

 行政はあくまで「一時避難所」と説明しているようだが、すでに3年半。

笹谷仮設住宅は周囲を新興住宅に囲まれて、ここだけが特殊な空間のように見える。本来は避難住民も新興住民も、地元の人にとってはどちらもニューカマーに違いないはずだが、仮設の小学生だけがバスで40分かけて二本松の小学校まで通っているという。両者の交流も薄いようだ。

そしてここの小学生も、住民もその理由をあまり語ろうとしない。

これと関連するかは別として仮設住宅をめぐっては、県内いくつかのところで悲しい事件も起こっている。

ある町では、「避難者帰れ」の落書きが行われたり、仮設住宅内に駐車していた自家用車数台のフロントガラスが割られる事件、仮設住宅に向けた花火打ち上げ事件などが起こっていて、その背景を東電と政府の分断・対立の持ち込みがあると指摘する向きもある。

福島第1原発の事故により、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、葛尾村、浪江町、川内町、広野町の双葉郡8町村の全住民が避難を余儀なくされた。

請戸小学校

請戸地区は浪江町の最東部に位置し、事故前は広大な水田地帯でもあった。一部が太平洋に面したほとんどゼロメートル地であったため、津波は約2キロ先まで家屋を押しのけ、木々をなぎ倒して膨大ながれきを運んだ。海岸沿いに点在していた家屋は、コンクリートの土台だけを残して跡形もなく消えている。

その爪あとがほとんど手つかずの状態で、今でも訪れる人々の言葉を奪う。

小学校は海岸から380Mの地点にあった。地震発生時の午後2時46分、81名の全校生徒は先生の誘導で直ちに約2キロ先の高台に向かった。しかしここも危ないということで、さらに数キロ先の国道6号線まで山道を歩いた。国道では運よく大型トラックが疲れ切った生徒を役場まで運んでくれた。

小学校の校舎はコンクリート製の堅固な建物で、躯体そのものはしっかり残されているが、内部は無残な姿を晒している。津波は1階部分をそっくり飲み込んだらしく、教室の壁や扉は激しくはがされ、天井からは破壊された鉄骨やパイプなどがアメ細工のようにぶら下がっている。体育館を覗くと、床の一部が大きく陥没し、舞台には「卒業証書授与式」の看板が掛けられたままである。壁の時計は3時38分で止まっている。

水が押し寄せて来なかった2階の教室はほとんど破壊されてはいないが、避難時のままさまざまな教材がそこここに放置され埃をかぶっていた。どの教室も黒板には、その後訪れた人々の復興への想いが一面に書き記されていた。

窓からは東に水平線と、南には第1原発の鉄柱が遠望できる。

ふくしまツアーと脱原発

ふくしま訪問は、昨年5月の飯館、南相馬訪問以来2度目であった。

今年は土建さんに便乗させていただき仮設住宅の方々と交流をすることができたが、昨年は福島農民連の方に現地ご案内をいただくとともに、震災後を生き抜いていく農民の方々の姿を垣間見る機会ともなった。それぞれ多くの体験や貴重な教訓を得ることができた。

しかし「ふくしまツアー」には様々な見方や意見がある。

・本当に現地との交流になるのか 

・物見遊山となるのではないか 

・復興支援につながっているのか 

・避難者の心情はさまざまで簡単にはい かない 

・年に1~2度の訪問くらいで本当の支援はできない 等々。

その一方、現地の声としては、・「惨状を知ってもらい、多くの人に伝えてほしい」、・「政府・東電との闘いに力を貸してほしい」、・「観光でもよい。現地を見てもらうことが、何よりの支援」などが出されている。

福島の街々をバスで走っていると、街中に「原発反対」の意思を表すポスターや看板が見当たらないことに気づく。原発事故の最大の犠牲地で、「原発反対」「脱原発」の運動がなぜもっと盛り上がってこないのか。昨年はそれが不思議であった。今年も確かに疑問ではあったが、今回は福島の人々はそれほど複雑で様々な思いでいるのだと思い至った。

10月に行われる知事選では、公開討論に参加した6人の候補者が「県内原発即廃炉」に賛成した。しかし新聞は「脱原発」がこの選挙の争点に浮上していないと報じている。

ふくしま後、ドイツとイタリアは国として「脱原発」を即決めた。

福島と西東京で、更なる交流と議論が必要ではないだろうか。

 

 浪江町は事故当時の風向きにすっぽりと覆われて、総面積の8割が帰宅困難区域となった。山も畑も家屋も、降り注ぐ高い放射線量で汚染されたのだ。

 ある主婦は山間部の旅館に避難させられた。そこに一月ほどいたら、二本松の小学校の体育館に収容された。半年後には子どもたちにそこを返すために、今の仮設に移らされてきたという。「ジプシーみたいなもんよ」と語った。

 全町民21千人が県内外に避難した。このうち「戻りたい」と考えている人は18.8%。戻りたくても戻れないのだ。除染して本当に人が住めるようになるのか、ライフラインはどうなるのか、地域の街並みと人々の暮しは果たして再生できるのか、全く見通しが立たない。

 

 この町と、ここに住むべき人々を異次元の出来事にしてはならない。

                           (下保谷 西)

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